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【アラベスク】  第5章 古都の夢



第3節 仮面の下 [9]




 成長過程に必要な恋愛経験と言うには、あまりに(むご)過ぎないだろうか?
 だが、ひょっとしたらっ――――
 焦り、苦悩する。
 どっちだ? どっちなのだっ?
 押し黙ってしまった木崎にかける言葉も見つからず、智論は一口茶を啜った。
 慎二が美鶴に対して興味を持っているのは間違いない。それだけでも、今の慎二にとってはすごいコトだと思う。
 異性に対して距離を置くような所業ばかりで固めている慎二が、それも唐渓の生徒に興味を持つなど、目の当たりにしてもまだ夢を見ているかのようだ。
 木崎が期待してしまうのもわかる。
 だが、慎二の意図がわからない。
「慎二………」
 祈るように呟く。
 信じてあげたい。だが、今の慎二は、女性には危険だ。
 恋愛の修羅場を潜り抜けてきた打たれ強い女性ならいざ知らず、美鶴はまだ高校生だ。
「木崎さん」
 躊躇いがちに、口を開く。
「私、前にも一度、あの子に会ったコトがあるの」
「え?」
「ほら、前に一度、古い駅舎の鍵を開けてきて欲しいって頼まれたコトがあるでしょう? お爺様が軽い夏風邪を引かれた時」
「あぁ」
 思い出したように木崎が頷く。
「あの時ね、あの子、駅舎の入り口に座り込んでいたのよ」
 そこで一度言葉を切り、フッと遠くへ視線を移す。
「あの子、泣いてたわ」
 涙を流していたワケではない。だが智論には、美鶴が泣いているように見えた。だから木綿のハンカチを渡した。
 汗と埃で薄汚れた姿。最初はギョッとした。
 それこそ、どこかで犯罪でも犯して逃げてきた若者かとも思った。彼女が寝ている間に、警察へでも通報しようかと思った。
 なぜそうしなかったのか? なぜそうはせず、肩を叩いて起こしたりなどしたのか、今となっては不思議だ。
「今思うと、ひょっとしたら慎二のコトで何か泣いてたんじゃ……」
「それはありますまい」
 思いのほか強く否定され、智論はその先の言葉を失う。その仕草に、木崎はバツが悪そうに視線を落とし、やがて瞳を閉じてフッと息を吐いた。
「それはありませんよ」
「? どういうコト?」
 聞かれて木崎は瞳を開け、ゆっくりと、だが力強く確信を込めて口を開く。
「あの日、夕方に私が施錠へ行きました時、美鶴さんはまだ駅舎におりました」
 一目見て、何か心に憂いを持っているのだろうとは察しがついた。汗と埃に(まみ)れ、目元に浮かぶ(くま)が疲労を表していた。
 駅舎などで時間を持て余しているのだ。家に帰りたくない理由でもあるのだろう。そう理解したから、それとなく夕食に誘ったのだ。
 そして――― 彼女の憂いに、慎二も気付いた。

「慎二様も、気づいておられたのでしょう?」

 木崎のこの問いかけに、慎二は惚け通した。
 だが間違いなく、慎二は気付いていた。気付いていたから、美鶴を一泊させた。
 信じられなかった。
 昔の慎二ならいざ知らず、他人の憂いを読み取れる優しさが、今だ彼の内に存在していようとは――― さらにそれを気遣い、半ば強引に美鶴を泊めた。
 しかも相手は女性だ。
「慎二が、そんなコトをっ」
 信じられないと言うように、智論は(かぶり)を振る。
「大迫さんなら…… 美鶴さんなら慎二様を元に戻してくださるかもしれない。そう私が期待してしまう理由、わかって頂けますか?」
「えぇ」
 そう答えながら、だが、それでも智論の内には不安が滞る。
 結局、彼女があの時何に心痛めていたのか、その理由はわからない。
 だが、そんな時に優しく気遣われたなら、気遣われたと彼女が感じてしまったなら、やはり女性として、好意を持ってしまってもおかしくはない。
 もし彼女が慎二に好意を持ち、そして彼の本性を知ったならば―――

 記憶の片隅で、一人の少女が泣いている。唐渓の制服を身に纏った、だがそれほど裕福ではなかった少女。

「お前は理事長殿の孫娘なんだからな」

 私には、彼女を救うことはできなかった。だが、真実の揉み消しを阻止するコトぐらいはできたはずだ。

「お前には、他の生徒の未来を背負う力も、決意もない」

 唐渓高校と、付属する中学の理事長を務める祖父の言葉が、智論にはまだ理解できていない。納得もしていない。
 ただ、祖父を説得するだけの力が自分に無かったという事実が、目の前に横たわる。

 自分は無力。







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